当ブログでは、大阪の発展を願いながら、主に北摂地域の魅力を細々と発信しています。
以前、古地図でみる千里丘陵の歴史という記事をまとめました。
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古地図でみる千里丘陵の歴史
みなさん!大阪に「淡路(あわじ)」という地名がありますが、地名の由来を御存じでし ...
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本日は「千里丘陵」の古地図の中でひときわ目立つ、「旧山田村」ついて考えてみたいと思います。
古地図でみる千里丘陵:旧山田村ウォーキング
旧山田村とは何ぞや?
千里の「山田」の歴史は古いです。
1970年大阪万博まで千里丘陵はほとんどが竹やぶに過ぎなかったわけですが、それ以前から「山田」は存在しました。
それどころか、明治42年測量の地図でも、山田村はけっこうな人口集中地区となっています。古い時代からどうして「山田」は存在したのでしょうか?
さて、明治時代に測量された地図をみながら、この意味を考えてみましょう。
今昔マップ on the web(http://ktgis.net/kjmapw/index.html)より地図を引用しています。
明治42年の大阪です。黒くなっているところが人口密集地帯です。大阪市内と堺市内の一部が人口密集地帯として目立ちますが、その他の場所はほとんど田んぼですね。
そして、もともと狭い大阪平野ですが、目の上のたんこぶのように千里丘陵が広がっています。
こんな感じです。千里丘陵は大阪から見て明らかに「僻地」です。
しかし、千里丘陵を拡大してみると・・・
「山田村」の部分がまあまあ目立つ人口密集地域になっています。明治42年の時点で、「山田村」はかなりの規模の人が暮らしていた土地であることがわかります。
これはどうしてでしょうか?
もう少し拡大してみます。
答えは、「伊射奈岐神社(イザナギ神社)」にあると思われます・・・が、それはページの最後にまとめます。
古地図を見ると明らかに、伊射奈岐神社への参道を中心として、北側が「上山田村」「中山田村」、南側が「下山田村」というふうに分かれています。
ここが、伊射奈岐神社への参道入口です。
伊射奈岐神社の参道がまたく、山田川。旧山田村はこの山田川沿いに発展しました。
では、古地図を参照しながら旧山田村をウォーキングしてみたいと思います。
旧山田村の北側
伊射奈岐神社の鳥居前から、北側を向くとこんな感じになります。
自動車は一方通行(北側向きのみ)。この絶妙な狭さが、旧街道っぽくていいですね。けれどもこれが旧山田村のメインストリート。古地図にマッピングすると、下図の地点Aになります。
少し進むとこんな交差点に。地点Bです。旧地図ではこのまっすぐの道はなく、旧道は左折です。けれども、松竹堂を超えたところですぐ合流します。
フルーツ餅が有名な和菓子屋「松竹堂」。人気店なので行かれたことがある方も多いかもしれませんが、「なんでこの周りの道はこんなに狭いんじゃ~!」とお思いの方も多いでしょう。それは、付近が旧道だからです。
地点Cです。山田川を越えたところで分岐。車道は新しい道です。狭い方の道が、旧山田村の道。狭い方(右側)へ行きます。
ここから古めかしい感じのお家が少しずつあって、良い雰囲気になっていきます。
古地図でも急に道が左に折れ曲がっているところ。地点D。地主の土地か何かだったのでしょうか。
左手に行くと、いい感じの木造建築が続きます。
井戸と不自然な広場・・・こういうところにはたいがい何かがありますが・・・
旧三島郡山田村の村長宅跡でした。地点E。
狭い道をくねくねしていきます。ここでは右手に。
また山田川をわたります。
立派な木造建築が続く。ここが地点F。ここは左手へ。
ひときわ立派な建物と思えば・・・
お寺(宗名寺)でした。浄土真宗。
こういう古い街道沿いの赤いポストが好き。地点G。
浄土真宗・正業寺。
今日のひとこと。
「ぬくもりをもった言葉は、必ず相手を包み、相手に響いていく」
あなかしこ。
木造建築と狭い道・・・
旧道沿いで良くみられるこういう置石も、何か歴史的な意味があるのでしょうかね?
そして、ここが古地図上では上山田村のほぼ北端。地点Hです。
お地蔵さんが家を一体化しているのが歴史を感じる・・・!
ほぼ北端。地点Hの少し先の直角に折れ曲がっているところ。山田川沿いです。
このあたりでふらっと路地裏に入ると・・・
ここ、吹田市ですか?というほどの「路地裏ワールド」が!
家の壁に一体化したお地蔵さんたち。
昭和初期のような面影を残すお家が、路地裏にたくさんあります。少し離れれば、マンションが乱立している地域で、時がとまったエアポケットのようです。
旧街道沿いの路地裏探索楽しい~( ´艸`)
旧山田村・南側
次に、旧山田村の南側をみていきましょう。
旧山田村の南端は、現在でいうところの「山田名神下」付近です。
100年前の人は、村の南に高速道路が走ることになるなんて想像もしなかっただろうな~
府道1号線と万博公園大観覧車。旧山田村のすぐそばはこんな感じです。
さて、ここが旧山田村への入り口です。古い道の面影を残しています。古地図でみると、下図に示す地点aです。山田川にかかる橋のところ。
村の南端と思われる位置にはお地蔵さんが・・・古い村の名残です。地点b。
思えば、現代の住宅開発では、100年以上もたってこのような形で残るものはあるのだろうか・・・
狭い道にある赤いポスト。地点c。
ふるい街並み、ゆっくりと曲線を描く道がいかにも旧道ぽい。地点d。
そして、伊射奈岐神社下へと戻ってきます。地点eにて振り返るとこんな感じ。右側が旧道。
今回紹介した旧道に平行するように車道が建設されていますので、それと意識しないとここが古い街であることになかなか気づかないでしょう。
歴史ある伊射奈岐神社が山田に存在する意味
ご覧のように、伊射奈岐神社を中心に、南北に伸びたのが旧山田村であります。
伊射奈岐(イザナギ)とは、最も古い神の一柱で、アマテラス、スサノオ、ツクヨミの父とされる神さまです。そんな日本神話の根幹にあたる神を祀る神社が、どうして山田にあるのでしょうか?
千里丘陵の歴史を考えるときに、これはとても興味深いテーマです。
由緒。
神社の公式HPによると、地名に関する興味深い説明があります。三重県伊勢市に「山田」という地名がありますが、そこから五柱の神を奉る霊地を捜し求め、この地にたどり着いたため、「山田」という名がこの地にも引き継がれたそうです。時は雄略天皇の時代(西暦400年代?)。
ということは、この神社の由来が西暦400年代ころとすると、旧山田村の歴史もそれくらいまでさかのぼることになります。しかも、伊勢の山田と密接な関連があるといえます。北摂地域でも最も古い地区の一つということですね。
千里ニュータウンの開発にのまれ、埋没してしまったかのようにみえる旧山田村ですが、千里の重層的な歴史の重要な土台を形成していたと言えますね。
千里は面白い♪
もう一つ、イザナギの対になるイザナミ神社が佐井寺地区にありますが、こちらはまた後日取り上げようと思います。
伊射奈岐神社本殿。千里の歴史を1600年近く見守ってきたと言えます(当然ながら、京都より古い!)。
イザナギ神社については、過去記事にてまとめています。
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吹田市山田のイザナギ神社(五社宮):太古の時代の千里と伊勢の関係を示す神社
吹田市にはイザナギ神社と名の付く神社が二つあります。山田東の伊射奈 ...
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吹田市は旧山田村を景観保存地区にして新たな観光資源にして欲しい
ということで、旧山田村近隣には古い街並みが残っているわけですが、近隣の開発に飲まれ徐々に姿が消えていっているような状況です。
吹田市にはこの地区は歴史保存地区に指定して積極的に景観保護を行って欲しいです。
万博記念公園からも近いですし、千里の新たな観光資源の開発を兼ねて、如何でしょうか?
まとめ
本日はウォーキングがてら旧山田村を散策いたしました。
旧山田村は、イザナギ神社を中心に形成された集落であると思われます。
イザナギは日本神話の最古の父神であり、伊勢の「山田」からその名を引き継ぎました。
時代は、雄略天皇の時代(西暦400年代?)に遡ります。
すぐ近くに高度経済成長の一つの象徴でもある万博記念公園がありますが、そんな太古の時代から歴史があったというのは不思議な感じがしますね!
奥深き千里の探求に、旧道ウォーキングはいかがでしょうか?
阪急山田駅からも、万博記念公園からも徒歩圏内です♪
吹田市は旧山田村を新たな観光資源と考えて、旧街並みの保存を積極的に検討して欲しいと思います。